かずひさ

神社の絵馬に秘められた本当の意味

皆さんは、神社で絵馬を奉納した事はありますか?

神社に詣でると、ほとんどの神社で絵馬を見かけます。授与所では絵馬が授与され、その場で願い事を書き、所定の場所に吊り下げて奉納する事が出来ます。

一般的に絵馬は、願い事を書いて、神社に奉納するものとして認識されています。

絵馬には公共性があり、奉納された絵馬は誰にでも見る事が出来ます。また他人の絵馬を覗き見ることは特に禁止されていません。ある神社で奉納された絵馬を眺めていると、主な願い事として、「学業成就」や「えんむすび」、「病気平癒」や「家内安全」など、定型化された願意をはじめ、「パパが○○に連れて行ってくれますように」のような牧歌的なものから、「縁切り」など、相手の名前まで記されたより具体的な祈願も見受けられます。

願い事の他には、願主の名前などが記入されます。実際に住所と名前が記されているものが多く、プライバシーに関して神経質な昨今にも、個人情報ばかりか、個人の願望までも公表するという点において、世相を超越し、絵馬が単なる文化的風習ではなく、個人の信仰心に基づく現世利益追求の強い表れであるといえます。

絵馬のルーツ

絵馬のルーツとして、二つの説があります。

説1:神社では神馬(しんめ)という、生きた馬が奉納される。これは神の乗り物であるという。この生きた馬の代わりとして板に馬を描いて奉納されるようになった

神幸祭に列する神馬。通常、神馬の上には飾り鞍や御幣などが載せられるが、潔斎、斎戒した神主が搭乗する場合もある。この場合、神主は神の依り代としての機能を果たす。

大祭などで渡御(神幸祭)が行われる神社があります。渡御では神の依り代である神輿(みこし)や御鳳輦(ごほうれん)を中心に、獅子舞や稚児行列など、氏子崇敬者や神主らにより構成される大行列が組まれますが、その中に馬が加わる事もあります。馬には人が乗る事もあれば、単に馬のみが列に加わる事もあります。こうした搭乗者のいない馬にも鞍がかけられ、その上には御幣が載せられます。御幣は神の依り代で、これはその馬が神の乗り物であるという事を示します。

こうした神事に使われる生きた馬は、誰かが奉納することにより、神社の所有になります。生きた馬は飼育の必要があり、管理できる頭数に制限があります。もし多数の人が馬の奉納を願い出たら、神社が馬であふれかえってしまいます。このような理由から、生きた馬に代わるものとして、絵に描いた馬が奉納されるようになったという見解です。絵に描いた馬だから「絵馬」というなど、語源としても有力な説です。

しかしながら、絵馬になると本来の神の乗り物としての機能は失います。ある人が絵馬を奉納するとき、神の乗り物(の代替)という建前で奉納する事は殆ど無いでしょう。

説2:神に帰依する心を起こした者が、己の信仰心からの施与と、その代償として得られる現世利益を目的として、神にそれを知らしめる為に絵馬を作り、自分の名を書いて奉納するようになった

菅原道真公は生前、学識に秀でた事から、学問の神として崇められ、全国の天満宮では学業成就、志望校合格の祈願が絶えない。

絵馬に描かれるモチーフは、馬をはじめ、その年の干支であったり、またその神社を象徴するような絵、すなわち社殿などの建造物、神話のワンシーン、あるいは天神信仰における牛や、稲荷信仰における狐など、神の使いとされる動物、また神そのもののイメージ、さらには特定の祈願に関連するもの、すなわち初宮詣なら犬の絵、えんむすび祈願ならイザナギ命とイザナミ命の絵など、その他にも絵馬に描かれる絵には様々なモチーフがあります。

絵馬は奈良時代のものが出土しており、かなり古い時期から存在した事から、生きた馬とは別の成り立ちである可能性が強く、絵馬は始めから絵馬として生まれたのではないかというのがこちら側の主張です。

絵馬の絵柄はなぜ馬が多いのか?

絵馬に描かれる絵の中でも最もポピュラーな絵柄が馬です。

説2の主張では馬は神馬の代替物ではなく、太陽神アマテラス大神の眷属として扱われます。なぜアマテラス大神の眷属かというと、陰陽道の見地から説明がつきます。十二支を方位に当てはめると午(馬)は真南に位置します。太陽は東から昇り、南に来たとき、もっとも高い高度を得ます。これを南中といい、太陽が南中する時刻が正午であり、南中を象徴する動物が馬(午)になります。

すなわち馬は太陽のエネルギーが最も強い状態を象徴した動物であるといえ、この事から天照大神の眷属と考える事ができます。日本の神社は伊勢神宮(天照大神)を本宗として、全国の神社の信仰はすべて伊勢神宮に集約される為、天照大神を万能の神として、神々の棟梁として、馬が描かれる事が多いのです。

したがって馬の絵が描かれた絵馬は万能で、あらゆる祈願に対応しています。

説1、説2に対する筆者の見解

日本の信仰に多く見受けられる現象として、あるルーツがあって、そこからある風習が生まれ、さらにそこから別の次元へと飛躍してゆくといった現象があります。そうした派脈が複雑化し、それぞれ類似しながらも別々の意味を持ち、本当のルーツが何処にあるのかわからないといった事がよくあります。

絵馬の件に関してもそうで、宗教学者らの論争はよそに筆者はどちらかの説に偏る事はあえてせず、どちらも有力な説である事は確かなため、話の流れで使い分けるようにしています。

犬張子は中国伝来の子供の玩具で、一般的には初宮詣では実物の犬張子が用いられる。初宮詣と犬張子が結びついたのは、犬の子は丈夫で、比較的育ちやすいため、その強い生命力にあやかって、子宝延命の祈願の象徴として用いられるようになったと考えられる。

最近の神社界がPRする「神社は神様に感謝するための場所」というキャッチコピーと絵馬が提供する現世利益とは完全に相反する

現在では現世利益の追求はまるで悪い事であるかのように言われる動きもあり、「神社は神様に感謝するための場所であり、願い事をする場所ではない」という人もいます。しかし、その事は神社における奉納絵馬が現世利益の祈願を推奨している点と矛盾します。また神社で受けられるご祈祷などの一連の行事についても矛盾します。

神社を祈願の場ではなく、ただ神霊に対し報恩を行うのみの場とする思想は、一見高尚な哲学のようにも見え、そうした理論を声高らかに主張すれば、人格者としての評価と、わずかばかりの自己満足を得られるかもしれません。

これについてさらに言及するなら、人と神との関わりを”感謝”という簡潔な態度に集約し、それを強要することは、支配者側にとってメリットがあります。神によってもたらされる現世利益を支配者が独占し、さらに人々の神に対する敬を、支配者に対する敬にすり替え、結び付けようという意図を見出せます。

古事記に見られるように、権力者の先祖に神の名が据えられていることからもわかります。

神社の信仰を狭い意味での”感謝”に集約して論じる試みは世俗的な神祇信仰の現状を的確に把握できているとは到底いえません。したがい神社の信仰を説明するうえで、理論として根本部分で破綻しているといえます。

ただし、祈願の成就の際の「お礼参り」のような感謝の儀礼ももちろんあります。宮中を始めとする諸神社で秋の収穫感謝祭として行われる「新嘗祭」も同様です。しかしこれはあくまで祈願が成就した事に対する感謝で、祈願が始めにある事を前提としており、祈願を禁止した上での感謝とは異質であるといえます。

※祈願が成就した後のお礼参りは忘れてはなりません。

願い事が出来ない人は生きる意欲を失っている

願い事、欲、願望があるという事はそんなに悪い事なのでしょうか。逆に欲や願望がない事は良い事なのでしょうか。

皆さんは自分の願い事を今すぐ10個挙げろと言われたら、すぐに言えますか?

実は最近これが出来ない日本人が増えているらしいのです。「欲しがりません、勝つまでは」の如く、我欲を押さえつける禁欲教育の成果なのか、物質的に満たされた現在において、ニヒリズムが横行しているのか、はっきりした理由はわかりませんが、欲を表に出さない、あるいは出せない人が多いといいます。

あるいは本音と建前の精神なのかも知れませんが、本音を隠しているうちに実際に自分がどうしたいのか、何が欲しいのかわからなくなってしまうという危険性もあります。

願い事があるという事は、自分がどうすれば幸せになれるか、何を実現すれば幸せになれるのか、自分が幸福を達成するための条件を自覚しているという事です。これに対して願い事が無い、すぐに出てこないという人は、悟りを開いて、欲を滅し尽くした如来、生き神、生き仏でないのなら、自分の幸せや生き方に対して鈍感になり、具体的な見解を持てていない状態に陥ってしまっている可能性があります。

自分の人生の目的や、自分が幸せになるための条件がわからなければ、何のために生きているのかがわからなくなってゆきます。行き場を失った生命力は、酒やドラッグ、あるいはネットゲーム、ギャンブルなど、身近にある安易な快楽に逃げ場を求め、あるいは動物虐待、近親者に対する暴力など、陰湿な犯罪として発散され、さらには自虐的な志向、引きこもり、自殺願望など、つねに虚無感と隣りあわせでしか生きていく事が出来ない人間になってしまいます。

現世利益の追求が蔑視され、ただ”感謝する”という、一見高尚な思想でありながら、発展性が無く生産性の無いキャッチコピーのみが先行し、それが今後、神社の機能に対するイメージとして一般化し、結果、神社に参拝するという行為がそうした空疎なものでしか無くなったら、参拝する行為自体が面白くなくなるし、どんどん神社から人が遠退いていくでしょう。

神社というのは個人の心の内に秘めた願望をすべてさらけ出す事の出来る場所であり、それが本来の機能であるといえます。こうした個人の願望の最後の受け皿としての神社の在り方すらも否定されるなら、その先に待つのは先ほど挙げたような暗い人生を送る人々で溢れる、無気力でネガティブな世界ではないでしょうか。

”感謝する”ことはもちろん大事です。でもその前に利益が無いと感謝する理由が生まれません。生きている事自体が利益であり、その事に対して感謝する事で終始してしまうのなら、生まれた瞬間に願いが成就した事になり、それ以上生きている意味は無いでしょう。ましてや莫大な資金を投じて立派な社殿を作り、天界に暮らす神々をわざわざ地上に呼び寄せてまで祀る必要はどこにもありません。

神社とは人がそれを建てた時点で、神に願いを聞いてもらうという契約を交わしているのです。それゆえ神社運営の費用の一部を賽銭という形で担い、祈願を行うのです。

そうした個人の祈願と神のご利益の橋渡しをする機能をもったもの、それが絵馬なのです。

フィギュアスケート選手の羽生結弦さんが奉納した絵馬。2011年付けで奉納されており、自己の願望を具体的に表現している。彼はその後、2014年のソチオリンピック、2018年の平昌オリンピックで金メダルを取り、ワールドレコードを何度も更新し、事実上、世界のトップとなった。

画像出典:アリスのブログ ~羽生結弦選手と日々のこと~

絵馬の力で人生の目的を見出す方法

絵馬は自分の願望に対して鈍感になってしまった心を整える特効薬です。

自分の願いをすぐに言えない人は神社に詣で、絵馬を奉納する習慣を実践してみて下さい。自分の願望や欲と向き合う事で徐々に自分というものが見えてくるでしょう。無理に毎日行う必要はありません。気が向いたとき、またたまに神社に参拝した時に行えば良いでしょう。次第に漠然とした願い事も、より具体性を帯びたものになります。それに伴い、目の前の世界が変わるかもしれません。

これについて例え話をしましょう。Aさんは無気力でした。Aさんの親はAさんのやる事成す事に否定的な態度をとり、Aさんが子供の頃に抱いたパティシエになりたいという夢も、「いい大学を出て、いい会社に入って、、」という定型化された人生構想を振りかざして一蹴しました。Aさんは自分というものがわからなくなり、無気力に陥りました。現在のAさんは就職も失敗し、生活保護を受けて毎日何もせずに暮らしています。ある時お金に困り、神頼みで神社に訪れ、絵馬による祈願を実践してみる事にしました。最初は「お金が欲しい」と書きましたが、なんとなくそれでは駄目な気がして、次は「お金を稼ぎたい」と書きました。単に「欲しい」という他力本願的な欲求が、「稼ぐ」という自動的な表現に切り替わったことがわかります。Aさんはそのうち「稼ぐ」為には生産的な活動を行う必要がある事に気づきました。そこで、子供の頃の夢だったケーキ屋さんになる為にパティシエの資格※を取ることにしました。次に書いた願いは「パティシエの資格取得試験に合格できますように」という内容で、より具体性が出てきました。ここまで来ればAさんは自分というものを理解し始めたといえます。

※パティシエになるには最低限、製菓衛生師の資格を取得しなければならない。

絵馬のご利益 – 引き寄せの法則

絵馬のご利益とは、神霊が高次元のエネルギーを発動させることにより、祈願者の運気が修正されるのではなくて、己の内面と向き合う事で、自分が本当にやりたい事を知り、開運の道を見出すことにあるのかもしれません。

もちろん「神様は常に見守って下さり、ピンチの時には助けて下さる」といった信仰心は人の心の支えになるでしょう。しかし神の心は、己の欲望を知り、目的に向かって活動する人にのみ向けられるものであるといえます。「お金が欲しい」と祈願したところで、神からすれば、生産活動を行わない人の所へ財を引き寄せるなど、空から万札を降らせる以外、どうしようもありません。

日本人は、神に豊作を祈願しながらも、決して他力本願に終始せず、考え、試し、失敗し、また考え、試すといったことを繰り返しながら田作りのノウハウを磨いて来ました。先人たちの功労により、現在のような豊かな作物が実り、我々はそれを食べる事が出来ます。

このような先達の築き上げた豊かさに対し、ただ感謝して終わりなら未来はありません。それをさらなる未来へ受け継いでいこうという意識は欲望そのものであり、その欲望の手助けをするのが人間社会に降神された神の役割であり、その延長に奉納絵馬という風習があります。

奉納絵馬とはこれからの自分の所信表明であり、引き寄せの法則で好運を引き寄せる、引き寄せノートに等しいものなのです。

“奇跡”は自分で起こせる! 3日後「引き寄せ」日記

かずひさ

かずひさ

宗教家。 代々神主の家系に生まれ、とある神社の神主として神に仕えている。 また、高野山真言宗にて得度した行者でもある。 10代の頃から霊聴を聴くようになる。 2016年、自己流でのチャクラ修行に失敗し、その報いとしてバセドウ病を患い、発見された時は末期で死の寸前だった。 何がダメだったのかを自分なりに反省し、気を取り直して修行を再開。 2016年11月、止観瞑想の末、身体の浮遊を体感、赤い曼荼羅を見る。 2017年4月大日如来の教えに導かれて悟りを開き、「空」の意味を理解する。 それは単に「無」の意味ではない事がわかった。 また、私が開いた悟りは仏の悟りのほんの第一段階に過ぎない事も理解している。